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オタイの浦
通称:筆島海岸
金子さんによる文言
建造されたオタイネの碑

波浮港を愛する会が考える「文学と歴史碑」の一環として
まず始めるプロジェクト、それが「オタイネの碑」の建立です。

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殉教者オタア・ジュリアと「オタイの浦」

波浮港を愛する会が考える「文学と歴史の散歩道」の一環としてまず始めるプロジェクト、それが「オタイネの碑の建立」です。
オタイネとは、オタア・ジュリアのことです。オタア、またはオタイとも呼ばれます。
大島の方言では目上の女性を「○○ネエ」と名前の最後に付けることから、オタイネになったという説があります。
朝鮮貴族の娘だったオタア・ジュリアは、キリシタン大名の小西行長の養女となり、洗礼を受けてキリシタンになりました。徳川家康の時代、1612年に出されたキリシタン禁止令にふれ、大島に流されたという伝説があります。島に流す長い旅の間に、オタア・ジュリアが改宗することを目論んでいたようですが、その固い信仰心は最後まで変わりませんでした。
現在の筆島のあるところが、「オタイの浦 (オタイネの浜とも呼ばれる)」と呼ばれています。オタア・ジュリアは信心のために、数奇な悲劇の余生をここで過ごしました。
その後ジュリアは、さらに新島、神津島に流され、生涯を閉じたというのが通説ですが、諸説があり、はっきりしていません。現在でも神津島の流人墓地では、毎年 5 月に「ジュリア祭」が行われ、その信仰心をたたえた巡礼団が訪れます。

「オタイの浦」の整備と『オタイネの碑』の建設

明治から昭和にかけて、たくさんの文人墨客が波浮港を訪れ、「オタイの浦」に立っています。「オタイの浦」にはいつも強い風が吹いています。荒涼とした岸壁と、風に煽られた波を見ながら、オタイネがここで信仰を守っていたことを想う絶好のロケーションです。ちょうど筆島が悲劇の殉教者オタイネのイメージとも重なり、数々のオタイネについての作品が生まれてきたのが、「オタイの浦」です。この場所にこそ、『オタイネの碑』が必要なのではないか、と考えたのが、「波浮の港を愛する会」呼びかけ人の一人、金子 勇さんです。

現在オタイの浦には、キリシタンの有志が立てた白い十字架と、オタイネ明神と呼ばれる祠があるのみです (祠についてはオタイネの伝説とはまったく関係がないものです) 。ですから、この浜でオタイネが過ごしたということを、私たちに知らせる説明がなにひとつないという状況でした。
そこで「波浮の港を愛する会」の最初のプロジェクトとして、ここに金子 勇さんの自費による『オタイネの碑』を建てることができました。これからも私たちは波浮の港、および伊豆大島の歴史をアピールする活動を地道に行っていきます。
私どものプロジェクトに関する更新情報は随時こちらのページで報告していきますので、ぜひまたお立ち寄りください。

(C)2006 波浮の港を愛する会